『革命を覚えた日』。Sano ibukiの新たなミニアルバムに冠された言葉はとても力強く、しかし「革命を起こした」でも「何かを変えてみせた」でもなく、ただ「革命とは何なのかを定義づけられた」という意味合いを感じさせるものだ。
初の全国流通盤『EMBLEM』から5年の間、常にSanoが音楽の中で取っ組み合ってきたのは「自分とは?」という概念であり、2019年のファーストフルアルバム『STORY TELLER』がまさにそうであったように、音楽を通して様々な物語とその主人公を描くことによってSano ibuki自身がSano ibukiの実態を探索する旅が歌になってきた。つまりSano ibukiの音楽と歌は、Sano ibukiという人間が輪郭を持っていくまでの命の紀元前を冒険するようなものだったと言えるだろう。
そう考えると、今作に冠された「革命」とは何なのかが逆説的に見えてくる。「革命」を「Sano ibukiの実像」に翻訳できる気さえしてくるほどの、音楽の力強さ、振り切れ方、自身の全部を使って鳴らしてやろうという気概が今作を貫いている。前作『ZERO』の中でSanoは<ZEROからHEROになるのさ>(“ZERO”)と歌ったが、そういう決意はそのまま、彼が音楽のスタート地点に立った以上に、生身の自分のまま歩いて行くことの始まりだったと言っていい。つまり『革命を覚えた日』は、SanoがSanoの生身をぶん回して生きて行くためのファンファーレに位置づけられるミニアルバムだ。
「音楽を始めてからの5年間が、これまでの人生で最も長く感じる時間だったんです。それだけ濃い時間を過ごしていたということだと思うんですけど。その中でも『ZERO』の制作は一番長く感じて。それはきっと、自分と向き合う時間が長かった作品だからだと思うんですよ。遊びに行くことも人と会うこともせず、部屋にこもって自分と対話しながら曲を書き続けたのが『ZERO』でしたし、なんなら『ZERO』で一度崩壊した気がするんです。自分と向き合い続けた結果、そこには何もないんじゃないかっていう気がしてしまったというか。そもそも自分という存在は面白くないんじゃないか、何も持ってないんじゃないか——根底にあった空虚に気づいてしまった感覚があったんですよね。だから歌によって物語を作って、その主人公に没入していたと思うんですよ。そういう意味で、自分の原点と根源に目を向けて『何もない』というところから始めようと思ったのが『ZERO』という作品で。それがあったからこそ、外の世界に目を向けて一歩目を踏み出してみようと思ったのが今作『革命を覚えた日』なんだと思います。そうして外に目を向けた結果、むしろ自分の中にあった少年心とか無邪気さ、自分に対するネガティヴな気持ちが生々しく出てきたのが面白くて……やっぱり世界と接続することによって自分はここに存在しているんだな、感情を持てているんだなと。そういうことに気づいていった過程が、この作品に入っているんじゃないかと思ってます」
これまで、逆説的な手法によって自分の存在を確認してきたのがSano ibukiというアーティストである。自我を自ら消して架空の主人公を描き出し続けた『STORY TELLER』も、架空の摩天楼の中を彷徨う心を歌に映した『SYMBOL』も、生命の証を突き詰め、今ここにある「呼吸」に自分の存在証明を求めた『BREATH』も、自我から離れ切った先で一滴だけ滲むSanoの色こそが本当の自分なのではないか? という仮説のもとに繰り広げられる音楽旅行だったのだと思う。ただ、本人の弁の通り、その結論は「何もない」だった。『STORY TELLER』を作った頃と同じように、己の中に広がる空虚を確認することとなったSano。しかしあの頃と違うのは、ならば自分の心の中ではなく外の世界を旅してみようという勇気、それ一発である。むしろそれこそがSanoの見つけた財宝だったのではないか。そう思ってしまうほど、今作に収められた楽曲達の中ではSanoの抱えるポジもネガも童心も素っ裸で躍っていて、そのことが楽曲の輪郭をより一層クッキリとさせている。特に印象的なのは、自己卑下とニヒルさと空虚が洗いざらい歌われる“罰点万歳”。上述の彼の言葉通り「自分には何もない」ということに対しての絶望を歌いながら、それでも<この傷も絶望も/僕を僕たらしめる最愛の希望>と結論する歌にこそSanoの変化が窺える。
「『ZERO』でとことん自分と対話してみて、自分に向き合うことは世界に向き合うことと同じなんだと実感したんです。これまで以上に自分の内面を綴っているはずなのに、どこか他人事のように感じたり、周囲の世界のことに通ずるなあと思ったり……自我と取っ組み合ってきたのも結局、自分を通して見た世界と向き合ってきただけだったんですよね。たとえば渋谷みたいに人が多いところに行くと、僕は逆走したくなることがあって。逆方向に行くことで人にぶつかりたいと思っちゃうんですよ(笑)。それも、人にぶつかることで自分の存在を確かめたいっていうことなんです。自分とだけ対話していても何もないと感じてしまったことはある種の絶望でしたけど、でも、自分以外の人がいるから僕は僕でいられるんだという実感に生かされてきたのも真実で。そのことを受け入れた感覚がありますね」
Sanoが自身の音楽を徹底して「物語」と称してきたのは、確かな自我を自分の脳内で探し続けてきたことの表れだ。そんなSanoが「誰かと自分」の関係性を通して自分の存在を認めるようになったことは、過去のSanoと180度異なる転換だと言っていいだろう。たとえば今作の冒頭を飾る“少年讃歌”。これはタイトル通り青春感満載のギターロックだが、単に青春を回顧してノスタルジーに浸る歌ではなく、「大切な人とともに過ごした時間だったから、こんなにも愛おしい記憶なのだ」という想いが真っ直ぐに綴られているところにSanoの心境と進境が表れている。そして何より、無邪気な少年時代の続きとして今の自分があるのだと歌えたことは、人生の肯定とほぼ同義である。
「大きかったのは、幼馴染が結婚して子供が生まれたことで。その子供を抱かせてもらった時に涙が出てきたんですよ。自分にとって大事な人の命のバトンが繋がれた時って、こんなにも愛しい気持ちになるんだなって。要は、何かを守りたいっていう気持ちが自分にもあるんだと認めざるを得なかったんですよね。自分もまだ捨てたもんじゃないのかもしれないなって思えたし、自分の中にある愛を実感した時に、じゃあこんな僕でも愛されていいのかもしれないっていう気持ちが生まれたんです。そうなると、やっぱり他者との関係の上で生きていくことを受け入れるしかなかったし、『自分を愛するにはどうすればいいのか』っていう感情に嘘をつけなくなった。もっと言えば、自分に対して無償の愛を与えることが、自分を愛してくれた人への恩返しなんだろうなって。そういう発想が生まれたことで『もっと人のそばに行ける曲にしたい』と思えるようになったし、少年時代があったからこそ今の自分がいるんだっていうふうに、あの頃の自分を掬い上げることが自分を愛するための第一歩なのかなと思ってました」
愛とは何か? 愛するとは何か?——そんな問いも、今作の核心のひとつである。他者を感じる心があるから自分は自分でいられるのだという気づきを扉にして、では自分が人に手渡したいものとは何か、人からもらった感情とは何なのか、それが愛なのだとすれば、愛とは何なのかという問いが彼の中に生まれ、そんな禅問答もまた、Sanoの歌の新たなガソリンになったのだろう。“久遠”はまさにそういう曲で、愛されたいと願いながら愛の定義を探求する、美しく切ない名歌である。本当の愛が何なのかの答えは出ないけれど、それでも愛されたくて生きている。たったそれだけだが、それだけの中に今作のすべてがある。自分と向き合い自分とは何者なのかに逡巡し続けることは、克己的と言えば美しい行為である。しかし見方を変えれば、生まれ落ちた瞬間から(望む、望まないにかかわらず)世界と社会の一部である事実からの逃避とも言えるだろう。閉じることで保たれる純真性と、開くことで生まれる人間との摩擦。その両方に引き裂かれることなく、どちらも直視しようとする強さと覚悟が今のSanoにはあるのだ。
「自分の中の愛を認識した時に、自分も愛されたいと願ってしまった気持ち……そういう気持ちはずっと持っていたものなんでしょうけど、見ないようにしていた気もするんですよ。自分は辛くて不幸だと思うことで、『人がいてこそ自分』っていうところから逃げてた。なんなら、自分は不幸であるべきだとすら思ってたので。そう思うようになった理由もわかるんですよ。学校で無視されたり傷つけられたりしていたから、人との交わりを諦めることで自分を守るようになったんです。でも、自分の青春時代を掬い上げてあげようと思った時に--幼馴染と50kmくらい離れた街まで自転車で行ってみようと言って、無茶を承知で夜通し走り続けたことを思い出して。いざ目的地についても、所持金が230円しかなくて缶ジュースだけ買って帰ったんですけどね(笑)。でも、そういうバカみたいな経験が僕の中でひと際輝いてると思えたし、自分次第で世界は無限に広がるんだと思えた瞬間が僕にもあったんですよ。だからこそ、自分が愛されたいと思う気持ちにも嘘をつかず歌にしたいと思いましたね。で、考えれば考えるほど、愛と生死は凄く近いところにあるんじゃないかなって思えてきて……たとえば何かを愛し過ぎるがあまり、その対象のために命を捧げてしまいたくなるっていうことも人にはあるじゃないですか。なんなら僕自身も、愛する何かを見つけたらそう在りたいと思ってるんです。“久遠”という曲は、そういう気持ちを歌ったものです」
自分とは何かを問い続けることは、自分の殻に閉じこもることとは違う。信条と信念を守り続けることと、信念に固執して外界を拒絶することは違う。心のヒダを丁寧に解きほぐし、だからこそ他者や世界の定義を自ら塗り替えたSano ibuki。そのことは何より、以前よりも輪郭をクッキリとさせた歌と音楽に映っている。ギターロック、ボカロミュージック以降とも言える膨大な音数のファンクナンバー、R&B、素っ裸の弾き語り……楽曲ごとの個性が立ち、だからこそ言葉も直接的で脳みそに近いものに変化。起承転結が考え抜かれた歌のストーリー性は変わらないが、その物語の中に宿る直情の配分が大幅に増したことによって、Sano ibukiと聴く人の音楽的距離が遥かに近くなった。そういう音楽的距離感、心の距離感の変化を端的に表しているのが、CD限定のボーナストラックとして収録される“エイトビート”である。Sanoが部屋の中で弾き語ったものをそのまま録音したような素っ気ないアレンジだが、だからこそSanoがSano自身をかつてなく曝け出している楽曲だ。8ビートという音楽におけるスタンダードを象徴にして「ごく普通にそこにあるもの」を描き、それをただ退屈だと呻いているだけの自分をシニカルに描いた歌。しかし<何だか全部、つまらない/そもそも僕が面白くない、ない。>と喚いて始まったが<心の奥の底、僕も僕を待ってる/なら間違いだらけでも行くしかないだろう>という結論に至る道のりは、ここに綴ったSanoの言葉を端的に凝縮したものだと言えるだろう。
「“エイトビート”は、僕なりの希望を書いた歌なんですよ。いろんなことがつまらなく感じるのは自分がつまらない人間だからだよな、エイトビートが退屈に聴こえるのは自分が退屈な人間だからだよなっていう歌ではありますけど、でも、こんな人間でも生きていけるから大丈夫だよっていう気持ちを込めてるんです。歌で人のそばに行きたいと願うのなら、まずはちゃんと自分のことを曝け出して歌わなくちゃいけないなって思ったんですよ。だから、“エイトビート”は僕でしかない歌です。……頑張れとか生きろとか歌うことは僕にはできないですし、涙を流す自分を隠してくれる夜を望んでいる自分もいる。だけど、夜に隠れたままで大丈夫だよって言い切りたいわけでもないんですよね。朝はどうしても来てしまうし、いつまでも夜が守ってくれるわけじゃないこともわかってる。だからこそ、朝が来るのが苦しいと思っている人の防御壁みたいになりたいんです。光を眩し過ぎると感じる人にとっての、遮光カーテンくらいにはなれるんじゃないかなって思うから。そのカーテンを開けて外に出るかどうかはその人次第ですけど、その瞬間までを見守っていられる音楽でありたいですね。死にたいと思ってしまうこともあるし、消えたいと思う瞬間もある。だけどそうやって物語を繰り返しながら、僕達は何度もエンドロールの続きを生きてると思うんですよ。それこそ僕の音楽も、僕が消えた後も永遠に残っていくんです。だとすれば、この歌が誰かの希望になる可能性だってある。そういう意味での希望を持って歌い続けていきたいと思ってます」
人と人の軋轢、日常的に飛び交う言葉の凶器、未だ終わらない戦争、生活の逼迫……世界は退屈で最悪で悲しみまみれだと言うことがあまりに容易い時代であり、悲しみにまみれたり傷ついたりした人間は、自分は弱いと思い込んで閉じこもっていく。言ってみれば、バッドエンド確定のエンドロールを先に見せられてしまったような錯覚すら起こしてしまう人間は確かに存在している。そして、エンディングを先に見せられた人間は、物語を失う。どこに辿り着くのか? 何と出会うのか——早過ぎるエンドロールは、そんな人生の冒険を消し去ってしまうのだ。しかし、そんな物語不在の世界だからこそ、Sano ibukiは自分の中に物語を描き、自分を物語に投影しながら生きる術を見つけてきた音楽家だ。そんな彼が、物語を「描く」のではなく、自分自身が主人公の物語を歩み始めた。自分自身を物語にして、命を旅していく音楽。その始まりを告げる、Sano ibukiがSano ibukiに起こした「革命」が本作である。
矢島大地(MUSICA)