2019年のファーストフルアルバム『STORY TELLER』以来となる「物語を基にしたアルバム」、それが『BUBBLE』である。『side-DUSK』と『side-DAWN』の連作によるアルバムとなっており、そのこと自体が、Sanoが本作に込めた想いを表していると言っていいだろう。公式の資料によれば、『side-DUSK』ではひとりの少年レイが「失っていく」物語を描き、『side-DAWN』ではもうひとりの少年メイが「手に入れていく」冒険譚を綴っている作品だという。「バケモノ」の王になる素質を持って生まれたが故に幽閉され、ある日をきっかけにしばしば夢に出てきたメイが旅する外の世界に憧れを抱き、旅に出るレイ。彼は、自分とは何なのかを突き止めていく中で理性を失い、バケモノの王となってしまう。対して、レイのクローンとして出生したことを知らないままレイの夢を見て、彼に会いたいという憧れを抱いて旅に出たのがメイだ。旅の果てでふたりは出会い、そしてどちらが本物の「僕」なのかを決しようとする。つまり本作の物語は、元々ひとつの存在だったふたりの少年が対となって、「痛み」と「夢」の両極から自分という存在を追い求める冒険譚なのである。
こうして本作の背骨となったストーリーを整理してみると、これはそのまま、Sano ibukiが辿ってきた人生を描こうとした作品のように思えてならない。Sanoが発表してきた作品達の根底にはいつでも「自分とは何なのか」という探求があり、自分という存在を示すに足る形、輪郭を求め続ける心の声が歌になってきたからだ。ファーストフルアルバム『STORY TELLER』では、自分とは異なる主人公を生み出して歌にしたためることで、今ここにない人生を願い続けた。『STORY TELLER』のスピンオフ作品である『SYMBOL』(2020年)を経て、『BREATH』(2021年)では徐々に「物語の鎧」を脱ぎ、今自分がここに生きている証を刻もうと、もがいた。そして『ZERO』(2022年)、『革命を覚えた日』(2023年)といったミニアルバムでは、自分探求の旅の末に見つけたのはブラックホールのような空虚であり、だからこそここから新たなスタートを切るのだという決意を歌った。学生時代に人から傷つけられた記憶が彼の孤独を生み、その孤独を抱えるからこそ目の前の景色と風景の美しさを拠り所にしながら音楽に潜り、心の叫びを歌にして、そこに自分の輪郭を見出そうとしてきたのがSano ibukiである。つまり彼の音楽に必ず宿っていた「自分とは何か?」という根源的な問いは、拭えぬ痛み、消えない孤独との格闘の歴史でもあったと言えるだろう。そういった歩みと本作のプロットを踏まえてみれば、物語を作ることで自分を探していたかつてとは異なり、Sano自身を主人公にした物語を初めて綴ったのが『BUBBLE』であるということが見えてくる。物語であると同時にSanoの人生をかつてなく多面的に映したアルバムであり、膨大な楽曲から浮かび上がってくる「傷と夢」、「喪失と再生」といったテーマ性は、人間の命そのものの本質を追求した痕跡だと言ってもいい。
「毎年作品はリリースしてきたんですけど、構想から数えると、『BUBBLE』の物語は『STORY TELLER』の直後から考え始めていたんですよね。そのアイディアを基にしつつ曲を作ってきて、それが今回ようやく形になったという感覚があって。その物語の発端は、『乖離している自分』を物語にしようと思ったことだったんです。『BREATH』の制作が終わった頃から、人間として生きる自分と、音楽を作る自分の求めているものがどんどん乖離していっている感覚があったんですよ。人間として求めているものと、音楽を作る存在として求めているものとが、真反対なんだということに気づいてしまったというか。それに気づいたのは何でもない瞬間だったんですけど……たとえば綺麗な空を眺めても感動できなくなったとか、そういう瞬間。そもそも僕の音楽の始まり自体が『目の前にある綺麗な景色を切り取りたい』『その瞬間の感動を切り取りたい』というものだったからこそ、何事にも慣れてしまって感動を感じられなくなった自分に強烈な違和感を覚えてしまって。じゃあ僕はどうしてあの頃、何気ない景色に感動していたんだろう?と振り返ったら、常に傷ついた心があったからなんだと気づいたんです。たとえば学校で誰かに嫌なことを言われて傷ついた日の帰り道、そこで見た夕日が綺麗だったとか……そういうふうに傷があるからこそ僕はいろんな風景に感動して、その時の心の形を忘れないように音楽にしてきた節があるんです。でも一個人としては、わざわざ傷つきたくもないと思ってるし、安心と安住を欲し続けて生きている。そういう乖離に気づいた時に、僕は穏やかさから意図的に目を背けて音楽を作り続けてきたんじゃないか、個人としての自分に嘘をつきながら音楽を作ってきたんじゃないかと思ってしまったんですよね。そう気づいてから、じゃあ僕は人間として何のために生きてるんだろう?って考え始めちゃって。本当は穏やかさを求めてる自分、そこから目を背けて自分の傷に沁みるものばかりを音楽にしてきた自分……その両方を掬い上げることで、本当の自分とは何なのかを突き止めたかった。そうすることで、これまで生きてきた自分を救いたかった。そういうアルバムのような気がします」
青春期の傷をガソリンにしながら自己問答たる楽曲を作り続けてきたSanoにとって、空の青さに感動できなくなったことは蒼さの喪失のように感じられただろう。実際、Sanoの音楽はブラックミュージックを背骨にしていると同時に2010年代の日本のギターロックからの影響も色濃く、思春期性を感じるその煌びやかな疾走感が多くの人の青春に重なってきたところも多分にあるはずだ。自分にとっての青春とは決してキラキラしたものではなかったとSanoは何度も語ってくれてきたが、何にせよ、彼の音楽の根源にある少年期の風景が、心の中で色を変えていったことに彼は大きく動揺し、そしてその根幹を自分自身で疑ったのだと思う。つまり今作の発端は、Sanoが己の人生観と真っ向から向き合い、そして揺るがされたことだったのだ。
「僕はずっと、高校3年生最後の春休みを生きてきた感じがあるんですよね。大学生になる直前の時期……子供と大人の狭間を感じつつのモラトリアム期間を生きてきたというか。学生時代に傷つくことがたくさんがあったからこそ、その傷を癒してくれる風景にすがっていた。なので僕がどんな風景を見ても感動しなくなっていったのは、ある種の思春期性を失っていったということで間違いない。そういうことを考えていくうちに、セカンドアルバムの『BREATH』を作り終えた後、いよいよ人として崩壊してしまったことがあったんです。精神的にダウンしてしまって、その次は物理的な症状が出てきてしまって。今回で言えば“天国病”という曲がまさにそのことなんですけど、自分で止められないほど手を洗ってしまったり、寝て起きたらよくわからない場所にいたり。そういうことが多発して、自分のことをコントロールできなくなってしまったんです」
<理性のブレーキ/ぶっ壊れて、止まらねえ><泡泡、赤で染まっていた>(“天国病”)。本作の、特に『side-DUSK』には、Sanoが自身の根幹を揺るがされ、そして壊れていった様も生々しく遺されている。冒頭に記した物語のあらすじに登場する「バケモノ」という概念は、他ならぬ、人間としての自分を疑ったSano自身のことだったのである。物語の主人公の後を追うのではなく、あくまで自分が辿ってきた旅を丁寧に記していく。そうすることで自身を見つめ、確かに生きてきた痕跡を受け入れていくことで、この先も生きていくにはどうしたらいのか?という糸口を見つけ出そうとしたのだ。『ZERO』や『革命を覚えた日』に収録されていた“ZERO”や“終夜”、“久遠”といった楽曲も本作の重要な位置を占めているが、それは、本作が『STORY TELLER』以降のSanoのドキュメントであることも表している。傷を負うことを自らに課して生きていく--そんなふうにして引き裂かれた自分の存在を赦し、そして変えていこうとした旅の記録である。
「……自分が壊れてしまっていた頃、パッと横を見てみたら、幼馴染が結婚して子供が生まれていて。そこで初めて、あれ?って思ったんですよ。自分の大事な親友が幸せになっている姿を見て心から嬉しかったと同時に、じゃあ自分はどうするんだ?っていう問いが生まれてきて。傷が当たり前だった自分を、どこかで脱ぎ捨てないといけない。そうしないと生きていけないって思ったんです。幸せになりたい自分の本音を受け入れる……それが大きな一歩でした。そうしてこれまでの自分を脱ぎ捨てたかったし、それと同時に、自分が大事にしてきた傷も丁寧に形にしてあげたいと思ったんですよね。そういう気持ちが“プラチナ”という曲になって、物語をアルバムにしていこうということになりました。これまでの自分に区切りをつけないとダメだ、このままではダメだと思って作ったのが、“プラチナ”という曲でした。……人生における幸せも、安心感も、当然だけど人それぞれに違うじゃないですか。だとすれば、僕が求める安心は僕の中にしかない。自分と徹底的に向き合うことでしか安心は得られないと思ったんですよね。自分の内側に目を向けて、徹底的に向き合う制作でした」
『ZERO』のラストを飾り、今作にも収録されることとなった“ZERO”には、<僕はZEROからHEROになるのさ>という決意が歌われていた。この歌に込めた想いの真相も、ここで明らかになってくる。傷だらけでいい、痛みを追い続ければいい決意のように語っても、心から笑える自分を諦めることで得られる幸せは存在するのか? そんな問いと向き合い、Sanoは絶対的な理想を追うのだと腹を括ったのである。そしてその心の変化は、何よりも歌と音楽の変化に直結していった。
「いち人間として欲している安心感っていうのは、『捨ててきた当たり前』と言い換えることができるんじゃないのかなと思ったんですよね。穏やかさを剥ぎ取るようにして、制作中は食べることをやめ、寝ることをやめ、人に連絡せず、日の光を浴びず……僕は僕に対してなんてことをしてきたんだろうっていう自戒の念が生まれていったんですよ。その中で、自分から出てくる曲も大きく変わっていって。『STORY TELLER』の頃は、悪く言えば他力本願だった気がするんです。僕が本当に欲しいもの、穏やかな安心感に手を伸ばす行為を、物語の主人公達に託していた。だけど今回は、ただ物語を描くだけじゃなくて、自分自身が感動できる世界を描きたかった。やっぱり僕は諦めたくなかったんですよね、自分が感動できる世界を。感動するために物語を描くし、その物語の主人公であることを諦めたくなかった。そういう気持ちがこの楽曲達になったので、より具体的にアレンジに踏み込めるようになって。今までは2Dで作ったものをアレンジャーさんに3Dにしてもらう感じだったんですけど、今回は3Dで作ったものを4Dにしてもらうような感覚がありました。描きたいものが確固たる形として自分の中にあったからこそ、何から何まで説明するように埋め尽くしたり単にわかりやすくしたりするんじゃなくて、もっと感情に沿って音が呼ばれてくる感じになっていって。結果として、音の行間が増えた気がするんですよね。それが自分にとっても心地いい音楽でしたし、鎧を着るために物語と音楽があるんじゃなくて、自分の鎧を脱いでいくために音楽があるという意識に変化したんだなと実感しました。歌に関しても、楽曲に対する理想の形が変わっていったことで変化が生まれていって。この作品に至るまでは、自分とは違う主人公の物語として楽曲を書くことが多かった。つまり、自分が歌うことを前提にしない感覚がどこかにあったんですよね。でも当然ですけど、歌うのは僕なんです(笑)。自分自身の物語を音楽にするんだと思った時に、これまでの自分の歌では、自分のすべてを表した曲を歌いこなせないと感じてしまって。そうしてもがいた結果、1周回って『俺のまま歌えばいいんだ』というところに来られた気がしたんです。“かりそめ”を録った時に、初めて自分の歌が好きだなと思えたんですよね。これまでは自分の声に違和感を覚えることも多かったし、なんでこんな声なんだろう?って思うことばかりだったんですけど、ようやく自分らしい歌になった気がして。それもきっと、自分の心の声に耳を傾けて、どんな生き方をしたいのかを素直に表現しようと思えたからなんだと思います。歌も音楽も凄いですよね、本当に心が表れるんだから」
Sanoの音楽には、今ここにない世界を泳ぎたいと言わんばかりのファンタジックな音色や、苦しいからこそ踊りたいという願望や、直視できない現実があるからこそ走り抜けたいという一心不乱さを宿したものが多かった。しかし本作は、彼の王道たる雄大なメロディが際立つ“三千世界”をはじめとして、目の前の世界を包み込み、心の隙間を吹き抜ける風を丁寧に掴もうとするアレンジが増加している。つまり音と音の重なりが穏やかで温かい楽曲が増えたということなのだが、こういったサウンドの変化には、彼が「自分自身」だけに限らず、目の前の世界に対してどんな音楽を投げかけたいかにも向き合った跡がある。人間らしさを自分に問う物語は、今この世界のどこかで生きているあなたのことでもある。そう言わんばかりに、彼からの手紙のようにして鳴り響く楽曲達だ。
「自分がどこに立っている存在なのか、自分が何者なのかが過剰なほど重要視される世界になったと思うんですよ。スマホひとつで世界と繋がれている感覚になって、それが次第に、スマホ上でコミュニケーションをとっている相手が本当に存在していようと存在していなかろうとどっちでもいい感覚になっていって。自分を誇示するためのヴァーチャル世界のほうが大事になって、むしろ繋がりとか存在の実感は薄れていくばかりのように見えるんですよね。自分を表明できる場所が新たにできることは、いいことでもあると思うんですよ。でも、今の自分が実際に立っている場所を見渡してみた時にも『綺麗だな』って思える世界であって欲しいんです。『物語』というのは逃げ場所のひとつだと思うし、以前も『朝の光が眩し過ぎる人もいる。生きていかなくちゃいけないという現実がむしろ人を押し潰してしまうこともある。だから僕は遮光カーテンのような歌でありたい』と話したことがありますけど、でも結局、それは窓の存在を意識させることでもあって。世界を完全に遮断することは無理で、どうしたって外の世界を歩いて生きていくしかない。どんなに逃避しても、最終的にはやっぱり自分と世界の関係に向き合って窓を開けないといけないんですよね。だからこそ、この物語は一時的な逃避場所であり、それでも世界に踏み出していくためのものでもあるんですよね」
本作の制作の始まりでありSanoが今の自分を曝け出そうと決意した楽曲でもある“プラチナ”。ひとりで呟くような静謐な歌が、ストリングスとともに大きく開けていく雄大な楽曲だ。そのメロディに載る<笑って犯した間違いも/一つとして失敗だなんて/言いたくないから><後書きのいらない僕らにバイバイ>という言葉は、まさに彼がこの世界を歩んでいく姿勢を表したものだと言っていいだろう。生まれ変わるのではなく、これまでの自分の抜け殻すら携えて行く。ここまで生きてきた自分を否定するのではなく、抱き締めて赦す。それこそが自分を愛することなのだと、この歌は告げている。
「“プラチナ”は元々、その頃に経験した強烈な別れがきっかけで出てきた曲だったんですよ。そういう『バイバイ』と、頭の中の物語と、1回人間とは言えない状態になってしまった自分を重ねて、これまでの自分を脱ぎ捨てるしかないっていう気持ちを歌にしました。ただ、これまでの自分を脱ぐと言っても、その抜け殻が消えてなくなるわけじゃないと思っていて。その抜け殻も、確かに生きてきたことの証なので。それを大事に持っていけばいつか光り輝くかもしれないし、どんなに苦しくても生きてきたという証が、自分を救ってくれることもある。脱ぎ捨てるとしても、それもまた大事にしてきた自分だから。すべての自分を抱き締めて生きていきたいという決意であり、願いのような曲だと思います。……乖離しているふたつの自分も、どちらかを取ったらどちらかがなくなるのかって言ったら、僕はそれじゃ嫌だと思ったんですよ。両方とも自分自身なんだって大きな声で言って、抱き締めたかった。そうじゃないと、ここまで生きてきた自分があまりにも報われないから。誰かから抱き締めてもらうんじゃない、自分から抱き締めて欲しくて生きているんだよなっていう気持ちがここには入っているし、そこから始まるんじゃないかなって思ったんですよ。なので、曲を書いて行く中で『心の叫び』が消えた感じがしたんですよね。だからね、歌詞も全然書けなくなったんですよ(笑)。傷を前提にして、それでも自分はここにいるという叫びを歌にしていたのが以前までだったのに、その指針が大きく変わってしまったから。これまでみたいな歌では、本当は欲していたのに脱ぎ捨ててきた温かさから遠い気がしたんですよね。孤独に酔っている場合じゃなかったし、安心や穏やかさ、平穏な心を求めて生きて行きたいのなら、生きてきた時間、出会ってきた人の存在を真っ直ぐに愛せないと嘘だよなっていう感覚がありました」
この“プラチナ”が表している通り、どの楽曲の主人公も、人と出会い、人を失う旅の中で悲しみを知っていく。自分とは違う存在への憧れを抱えて踏み出し、だからこそ「バケモノ」という存在になることを恐れながら、勇気を振り絞って前に歩みを進める。そこにあるのは、自意識や理性を失って本能のままに世界を喰らい尽くす「バケモノ」が悪なのか、憧れと夢を抱くからこそ人間は苦しみ続けてしまうだけなのか、といった根源的な問いであり、足りない存在だからこそ僕らは自分と違う誰かを求めて生きていくのだという答えである。そしてそれは、言うまでもなくSano自身が歩んできた人生そのものなのである。
「まだ、自分に対しても世界に対しても期待していたいんです。見渡せば絶望だらけだっていうのもわかるんですけど、そこだけを見ていてもどうしようもないんですよね。その中でこそ光を見出したい、祈っていたいというのが、自分にとっての『生きる』ということだと思います。“革命を覚えた日”で歌っている『革命』というのも、決して大げさなことではないんですよ。怖気づいて逃げた日の自分も、それでもここまで這いつくばってきた自分も、その道を歩んできたからこそ出会えた人の存在も、今の自分を形成してくれた大事なもの。それが今の自分を形成してくれているんだと思うだけで、今の自分を愛せるようになるんじゃないかなって。物語の中では、人間が本能を爆発させて発狂する姿を『バケモノ』として描いたわけですけど、そうやって『誰か手を差し伸べてくれよ』って叫ぶしかない存在にもまた、自分を投影してるんですよね。そうして『愛』の在処を探し求めている自分に気づくことも、自分にとっては革命だったんです」
<遠回りの旅の終わりに/ちゃんと笑えますように/どこまでもずっと一緒だから/はじめから僕も光だ>(“三千世界”)。これは結論である。自分とは違う何かではなく、私達は内なる自分の声こそを追い求めて生きているのだ。自分の希望に耳を傾けようとして必死に生きているのだ。ならば光に憧れる自分自身が光であり、何かになりたいと思うのなら、その可能性を放っているのもまた自分自身なのである。だからこそ、Sanoは「自分とは違う」と思っていた光を自分の光として歌えたのだと思う。そして、その決意をしたためた時にこそ視界は色を変え、その目の前に無限の“三千世界”が広がる。そんなアルバムなのだ。
「満たされていないからこそ自分を満たしたいっていう願望は、結局自分の中にしかないんです。はじめから『理想には近づけない』と諦めたフリをして自分を守っていても、自分の心の声は『痛いよ』って叫んでるんですよね。理想の自分は自分の中にあって、何かに憧れたとしても、それは自分が持っているものを投影しているに過ぎない。なりたい自分の姿ははじめから心の中にあるんだと、そう気づいてきた道のりのような気もするんですよね。自分の心に語りかけて、うずくまって泣いている自分の声を聞いてみれば、ここまで生きてきた歴史がちゃんと浮かんでくるから。それがペラ1でまとまってしまうものであれ、誰もが旅をしてきたことに変わりはない。僕が描く『物語』というのは、どれもそういう気持ちから生まれているものなんだと思います」
Sanoが語る「人生という旅こそが物語である」という言葉を裏づけるのは、本作の制作の最後に作られた2曲、“致死量のブルー”と“きっと ずっと”である。綺麗な結論を描くというよりも、これまですがってきた蒼さ(=傷の記憶)と、自分が生きてきた世界を抱き締めて生きていく意志の表明とが、対極のまま描かれている2曲だ。“致死量のブルー”は、音数が少なく、その隙間を風だけが吹き抜けていくような楽曲。<救いも愛も求めちゃいないんだよ/ただ虚しさに飲まれる勇気が出ないだけ/もう尽きた青の幻の中、浸ってる/時刻を過ぎたバスはまだ来ない>というラインは、青さにすがろうとしていた頃の乖離状態を率直に表している。対して“きっと ずっと”は、「きっと」笑える日が来るということを「ずっと」諦めないという姿勢の表明たる歌だ。こんな人間に生まれ変わりましたというエンディングではなく、異なる自分を抱えながら生きているという真実を真っ向から受け入れ、それをそのまま歌にしただけとも言える、Sanoの極点を綴った楽曲達。そしてそのこと自体が、SanoがSano自身を赦せるようになったことの表れなのだ。引き裂かれているのではなく、全部を携えていく。そんな意志が聴こえてくる。
「対極から同じことを自分に問うている2曲ですよね。“致死量のブルー”は、僕が生きてきた28年が全部詰まっている曲だと思います。初めて、希望が一切出て来ない曲を書いたんですよね。今までは自分の絶望を描いた歌でもどこかに希望を見出そうとしてきたし、どんなに苦しい想いを込めた曲でも、それを昇華するために歌があると思ってきた。だけど“致死量のブルー”に関しては、昇華すらできない想いをそのまま書いたというか。今までの自分を脱ぐとか脱がないとかじゃない、ただの自分を表した曲なんですよね。今思えば、人から青春と呼ばれる時代の自分は全然青くも何ともないんですよ。だけどその時代に受けた傷を根拠にして表現をしてきた自分こそが青いと思ってきたから、青さのように見えた傷を飲み過ぎてしまったんだなと思って。傷を求めてるだけの自分ってどうなの? 本当はどう思ってるの?って自分に語りかけるような感覚で書いていきました。対して“きっと ずっと”は、このアルバムを作る時に大切にしていた言葉を基にした曲で。『きっと大丈夫』をずっと願っているということなんです。このアルバムに宿っているテーマとして、『愛』が凄く大きなものだと思うんですよ。自分を愛すること、生きている世界を愛するということ……生きていることに輪郭を与えてくれるものが愛だと思うし、幸せを求めて生きていくことにおいて、愛というのは避けて通れないテーマだったんです。どうしても人を求めてしまうし、愛を与えてもらったとしても『足りない』と思ってしまうことがあるし。それでも大切なものを愛して生きていきたいと思った時に自分にできるのは、自分で抱き締めることだけなんですよね。『きっとどうにかなる』と願うだけではダメで、愛して欲しいならば自分から抱き締めないといけない。だけどまた、愛されることを求めて、“きっと ずっと”と願ってしまう……人間にはそういう矛盾があるよなっていうのもまた、今回向き合ったもののひとつでしたね。そうして矛盾と向き合うことで、本当に大切な人と共に生きていくことを“きっと ずっと”と願えたらいいなっていう気持ちを込めました」
そして、今作の後編、『BUBBLE side-DAWN』を締め括る終曲“YUIGON”。この遺言は、この世界に置いていく惜別の言葉ではない。傷を負うことで新たな自分に出会おうとした『side-DUSK』の主人公。穏やかな幸せを欲して旅に出た『side-DAWN』の主人公。そのふたりの人生が邂逅を果たした時に、初めて輪郭を表したSano ibukiの実像がここにあり、Sanoの人生絵巻とも言える今作のフィナーレを飾るのは、大団円のエンディングではなく「次の旅へ行ってらっしゃい」という歌だった。
「傷をガソリンにするしかなかった自分から、本当は幸せを欲して生きてきた自分宛に贈った手紙が“YUIGON”だと思います。で、この言葉達はこの作品を聴いてくれた人へ向けたものでもあって。僕の歩いてきた道も、僕の考えてきたことも、決して真っ直ぐなものではなかったんですよね。きっといろんな人がそれぞれの曲がりくねった道を歩いているんだと思いますし、だからこそ、それを抱き締められたらいいなっていう願いを最後に歌いたかったですね。こういう曲を書けた今、傷を負うことで表現し続けようと思っていた自分はかなり消滅してきたと思うんですよ。なので、今後のことをまったくイメージできていないというのが正直なところで(笑)。幸せを望んで、安住を求めて生きている自分のまま、どう進んでいけるのか。その先がわからないからこそ、どんな自分に出会えるのかが楽しみなんですよね。高校時代は『誰も俺のことなんて理解してくれない』と決めつけて、ある種の諦めによって自分を維持しているところがありましたけど、それに比べれば、今のほうが必死にもがいているし、どんどん青くさい自分になれているとも言える気がするんですよね。青春だなんてふざけんなよって思ってましたけど、本心はどうだったかって言われたら仲間の輪に入れて欲しかったんだろうし、それを素直に言うのが怖いから歌にして自分を表現してたんだろうし。それは結局、人を求めて叫んでる今と変わらないところなんです。青いとされている時代の自分と、今の自分。自分に向き合えば向き合うほど、そのふたつがリンクしていく感覚もあって。やっぱり地続きの人生で、自分だけの物語を生きてきたんだなっていうことを実感してますね」
矢島大地 [MUSICA]